一般報道の隅っこに帰属して「何ちゃらジャーナリスト」なんて呼ばれる私ではございますが、元々は某美術大学及び伝説のプロ養成所〝セツ・モードセミナー〟でコッテリ鍛えられた「デザイナー & イラストレーター」です。
雑誌の仕事をメインにしていた時代はページレイアウトを含むデザイン、イラストレーションなどをせっせと作って生活していましたが、ついでみたいな感じで記事の執筆を頼まれることも珍しくありませんでした。出版社にしてみれば、支払いを「ページ単位」にしてしまえばギャラを圧縮することができますからね。交渉の余地なんてありませんでした。なにせ若かったので… (;´Д`)
何なら写真まで自分で撮りに行って、ページ要素の全てを自前で賄ったことすらあります。要するに器用貧乏の典型…「何でも屋さん」。
とはいえ、私の軸足は常に「デザインとイラスト」にありました。現在はもはや「何者か解らない状態」の私ではありますが、自分自身を定義して構わないのであれば断然「デザイナー」或いは「イラストレーター」と名乗りたい。言ってみれば「自分のプライドはどこにあるか??」みたいな話かもしれません。そんなこんなで、プロとして絵を描く「プレイヤー部分」には、些かプライドを持っていたりします。
今回はそんな風に紆余曲折を経て、数十年を「アートの世界」で生きてきたワタクシ目線で、最近のSNSでちょいと気になった「腕時計デザイン騒動」を例に「腕時計デザインのオマージュ事情」を深堀りしてみたいと思います。
少しマニアックな話になるかもしれませんが、読み終わるころには腕時計デザインに対する「新しいモノサシ」が生まれているかもしれません。いや、そこまでじゃないか (;´∀`)
SNSで勃発した「腕時計デザイン騒動」とは??
私が気になったのは腕時計デザインにおける「オマージュのあり方」であって、特定企業の理念や活動を否定したり、揶揄するつもりはありません。なので企業名の一切は伏せて書き進めます。実際、表面的には収束に向かっているようですし、蒸し返すつもりもありません。
状況を極々簡潔に要約しますと… とある腕時計の新興ブランド… 便宜上「A社」としますが、自社の売れ筋モデルに酷似した「B社」の製品とそれを許す業界に対して「複雑な思いを吐露」したことに端を発します。
当初「この展開は珍しいなぁ」とのんきに構えていた私ですが、そもそも規模はどうであれ、真っ当な企業がSNSの土俵で同業者の製品を暗に非難するなんて見たことがありません。ブランドにとって命とも言うべき「企業イメージ」に何らかの悪影響があることは確実ですし、この展開にはリスクしかないと言わざるを得ません。
なので「これは余程のことなんだろう」と思うしかありませんでしたが… 昔の人が言う通り「沈黙は金」なのですよ。A社にとって反論の余地のない意見を、あろうことか「消費者」から浴びせられる羽目になったからです。味方に付けるべき消費者を一斉に敵にしてしまったわけですから、SNS運用のリテラシーで言えば昨今あまり見ないレベルの「強烈な悪手」…「特大ブーメラン」だったと思います。
「おまいう」とはこのことか…
私自身はSNS… 特に「ツイッター(現・X)」の利用には慎重でした。使い始めたのも21年の10月からですし、それまではインスタグラムに細々と取り留めない写真を上げて楽しんでいました。
インスタ(Instagram)は写真を中心とした「表現の場」としての性格が強い場所です。対して「X」は「意見交換の場」です。ディスカッションを通じてインスタでは得られない種類の「共感」が得られる代わりに、同じだけの「異論と反論」に晒されるリスクを覚悟しなければなりません。ね?? 恐いでしょ??
「A社」のポストは表面上「ボヤキ」程度のトーンでした。ですので当初は「共感を狙った書き込み」だった可能性は高いと思います。ただ… 問題は「正義の所在」。真っ白な被害者と真っ黒な加害者が明確であれば、ポストを目にしたSNS利用者たちも「A社の言い分はもっともだ!!」「A社が気の毒」となったかもしれません。
ところが「A社」の売れ筋モデル自体も、非常に解りやすい「オマージュウォッチ」であったことが、腕時計好きの反感を煽りました。「それだって元ネタありきじゃないの??」と。
元ネタとされる時計はハイブランドの世界的人気商品。特徴的なシルエットで知られるその時計の「特徴そのもの」に寄せている(ようにしか見えない)のが「A社の売れ筋モデル」であると「共通認識」があったからだと思います。
となると消費者側の視点では「オマージュがオマージュを問題にしている」ようにしか見えず、共感のしようもなかったのだと思います。「人のこと言えなくない??」… 要するに「おまいう(お前が言うな)案件」として厳しく反応したわけです。
許されない「コピー」と許されてきた「オマージュ」の違い
デザインの「オマージュ」は様々な業界で長年恣意的に解釈され、ご都合主義の「グレーゾーン」として扱われてきました。もしかしたら真剣に撲滅を考えた「団体」や「元ネタメーカー」もあったかもしれませんが、そんなことにリソースを消費するよりも商売に精を出した方が生産的だよね?? と考えるメーカーがほとんどだったに違いありません。
そもそも「尊敬」を意味する言葉である「オマージュ」が「剽窃」のニュアンスを内包するようになったのは、そこに安易な〝お金の匂い〟がするからです。だからといって全ての「オマージュデザイン」を『悪』と断じるのは、些か短兵急かもしれません。中には「赦しを得ているオマージュ」も存在するからです。
暗躍する「スーパーコピー」など『徹底的に似せる』ことを目的としたコピー品が「絶対悪」であることは脊髄反射的に理解できます。本物と偽り消費者を騙す行為ですから根こそぎ撲滅すべき対象です。解って着けている人がいたならば、自身も加担している自覚を持つべきでしょうね。
では、同じように「似せたデザイン」であっても「オマージュ」が許されている(ように見える)理由は何でしょうか?? 話を進める前に「オマージュとコピー」の〝概念〟をまとめましたのでご覧下さい。
| 分類 | 意味 | 特徴 | 評価される要素 | 線引きのポイント |
|---|---|---|---|---|
| オマージュ(hommage) | 尊敬や敬意を込めて、過去の作品や作家を参照すること | 元の作品をリスペクトしていることが明らか透けて見える | そのまま真似るのではなく、自分の文脈に組み替えている | 出典を隠さず、見る人がオマージュであることに気付ける |
| コピー (copy・imitation) | 意図的に元の作品を再現し、自分の成果であるかのように扱うこと | オリジナルとの差がほとんどない。完全模倣 | 再現度の高さで評価される場合もあるが、好意的ではない | 外見や構造をそのまま真似ている。オリジナルと偽って流通している |
このように「真のオマージュ」は何気に敷居が高いのです。
出典を隠さずに真似るとなると何らかの許可、契約の取り交わしが必要なはずで、例えばSinnの903も広義では「オマージュ」にあたりますが、ブライトリングから権利の譲渡を受けた903の場合は謂わば「公認」。だからこそ特別な価値のあるモデルとして認められているのです。ただこれは非常に稀有なケース。今問題にすべきは「非公認オマージュ」の方です。
上記の表で言うならば、オマージュとコピーの間に「都合よく解釈されたオマージュ枠」が存在する感じかもしれません。元ネタの存在を明らかにせず、あたかもオリジナルのように語る行為は基本的にコピー品と同じです。違いがあるとすれば最低限「別ブランドの別モデル」であると表明していること。さらに元ネタに独自の解釈を加えてオリジナルにはない魅力を追加できた場合、消費者側がそれを「良くできたオマージュ」として歓迎する傾向もあります。
元ネタメーカー(ブランド)は、なぜ騒ぎ立てないのか??
結論から言いますと、そんなことをしても「マーケットが痩せ細る」だけだからです。大人になれば全員が腕時計をし始める時代であれば話は違いますが、現代において腕時計業界が推進すべきは「需要を増やすこと」。安い時計を細々と作っている若いブランドにプレッシャーをかけて、ハイブランドばかりが残ったとして、誰が最初の一本目に「300万円の時計」を買うの?? って話です。
業界としては文化的にグレーの存在であるオマージュを排除すべきなのでしょうが、安価で手に取りやすい時計がビギナーを育てているという側面に配慮して「見て見ぬふり」を決め込んでいるわけです。美しい言葉で飾れば「共存共栄」ですね。棲み分けを意図してのことでしょう。
そういった新興メーカーに下層を任せることで、有名ブランドは高利益商材に資本を集中することができる。しかも、オマージュウォッチが「ブランドへの憧れ」まで育ててくれるのですから、多少の目障りはあったとしても「泳がせておこう」と考えているはずです。
また、そうした「心の広さ」を見せることで「さすがは一流!!」と消費者の信頼を得ることにも繋がります。名の知れたハイブランドはいちいちSNSで不満を漏らしたりしませんよね?? 金持ち喧嘩せずとは良く言ったもので、心にゆとりのあるブランドは細かいことに拘泥しないものです。
新興ブランドの「成長段階」としては認めている??
情けない話ではありますが… 稀に一端の歴史を持つブランドが「他社の人気モデルオマージュ」に手を出してくることもあります。その辺りのゾーンになると消費者の目も肥えてきて「似ているから」なんて理由では大金を支払ってくれません。彼らは「本物」を求めていますからね。情報として扱うメディアの反応も微妙でしょうから、自然と消費者の目に触れることも少なくなり、数年後には「やっぱりね」なんてことになる時計も珍しくありません。
と考えると、今の「オマージュ枠」は「新興ブランド」にのみ許されたものかもしれません。前段で申し上げたような「役割」を担えますし、ハイブランドのマーケットを脅かすような存在にもなりません。
新興ブランドとしては、ハイブランドの余慶で時計を売ることができますし、ブランドの認知をちょっとズルい方法でブーストすることができるわけです。一応は「Win-Win」の形になっていますしね。
問題は「どこまで許される」か
オリジナルへの敬意を示すことがオマージュの発露であるならば、当然ながらオリジナルを軽んじるような表現は許されません。実際、パロディー系のブランドが訴えられたケースなどもありますし、何でもかんでもが許されるわけではありません。
また、売り方に関しても「看過できない」場合があると思います。オリジナルの存在をぼやかして、自分たちの商品こそがオリジナルと錯覚させるような見せ方は、消費者を惑わしオリジナルの存在にもキズを付ける可能性があります。要するに「オマージュだからこそ高度な気遣いが必要」なのです。
オリジナルを保有するブランド(或いは権利者)に対する気遣いは無論のこと、消費者の「寛大さ」につけ込み過ぎた場合も「許されないオマージュ」と判断される場合があります。各々の消費者が危ういバランスで持っている「常識の範囲」を測り損ねてそこから明らかに逸脱してしまった場合、それまでギリギリ許されていた部分も含めて「盛大に拒絶」されるケースがあるのです。
つまり、オマージュの展開においては「自分たちは許されている」と過剰に期待、或いは信じ込まないことが肝要。その線引きを間違ったとき、若いブランドほど凄まじい逆風に見舞われるでしょう。
「オマージュが許されるゾーン」に関してはオマージュする側に何らの決定権もありません。腕時計ではあまり聞きませんが「これなら何も言われないだろう」と自信満々に出したデザインで裁判沙汰になったケースもあります。
真似する側からすれば「約束された成功への道」に見えても、実際はまだら模様の地雷原みたいなところを歩いているのです。板一枚の下は奈落… それくらいの気構えで丁度良いのが「オマージュ」の世界です。
完全な「オリジナルデザイン」は存在しない時代の『腕時計デザイン』
百花繚乱の芸術が花開いた「ルネサンス」は、ある意味「模倣文化」が確立された時代でもありました。模倣は常に人類進化のステップに利用されてきましたし、真似ることで新しいものを生み出すことができるのは人類特有の強みです。

例えば、建築の巨匠「ル・コルビュジエ」の妙味は〝古典の徹底的な参照と再構成〟にありました。ギリシャ建築などを比較研究し、それをモデュロールとして近代建築に応用することで「新しいけど突飛すぎない作品」を残したのです。要するに「模倣の積み重ねを体系化して革新に変えた人」 と言えるかもしれません。
もちろん「オリジナルへの希求」は今の時代においても絶対。誰も見たことのないものを手にする喜びには、何物にも代えがたい興奮がありますしね。
直球を磨いてこなかった投手の変化球が通用しないように、実現困難と解っていても「世界をあっと言わせるオリジナル」を追求する姿勢があってこそ、テクニックとしての「再解釈」が魅力的に輝くのです。
860億個前後の神経細胞(ニューロン)を持つ人間の頭脳はとても優秀です。それでも突然天から降りて来たかのような「ひらめき」は滅多に起きません。自信満々でオリジナルとして出したものが、実は過去に影響を受けた発想の焼き直しだったなんてことも。今の時代、そこを気にしていたら一切の創作活動が停止しかねませんから、腕時計デザインにおいても「都合良く忘れるマインド」が、メーカーにも消費者側にも必要なのかもしれませんね。
「新機軸」の苗床
そうやって「都合良く忘れる」ことで、腕時計デザインにも活力が戻ってきます。枝葉末節を上げ連ねてあーだこーだ言ったところで面白い時計は生まれないのです。
模倣とオリジナリティーへの飽くなき追求が化学反応を起こしたとき、腕時計の「新機軸」は誕生します。見たことのない物である必要なんてありません。「おっ!! これは初めて見たぞ!!」と消費者が喜ぶ「何か」が顕現していれば、それで十分な評価が与えられるからです。
オマージュモデルで活況を呈す界隈を「新機軸の苗床」と考えれば、一過性の流行り物ではないとして、今よりも高いポジションをオマージュウォッチが獲得するきっかけになるかもしれません。
「オマージュ」には、デザインの賞味期限を伸ばす役割がある
デザインと芸術作品としての美術の大きな違いの一つが「デザインには寿命がある」という点です。要するに世のあらゆるデザインは「消費され、忘れ去られる運命」にあります。
これは決して悲しむべきことではありません。センセーショナルなデザインほど「短命」なのは仕方がないことなのです。
凡百のデザインが10年掛けて成し得る評価に1年で到達するような突出したデザインには「短期間に十分な爪痕を残した」と喝采を受ける資格があります。そうして新しいモノに淘汰されて使命を終え、キレイに忘れ去られることで、デザインはようやく「歴史の一部として埋没」できるのです。ダラダラと生き残りダラダラと消費されるデザインも散見されますが、その様子は如何にも「無様」です。
そういった無様を晒すことなく「デザインの延命」を可能にする、恐らくは唯一の策があります。「再解釈」… そう、『オマージュ』のことです。

例えばジェラルド・ジェンタ(Charles Gérald Genta )氏のデザインには多くのオマージュが存在しますが、その事実こそが彼の価値を底上げしているとも考えられます。オマージュとは第三者による「再解釈」です。ジェンタ氏のデザインに憧れた若い世代が彼のデザインをスタンダードとして様々なアイデアを試すことで、現代の腕時計愛好家にも「ジェラルド・ジェンタという天才に触れる機会」を作ってくれているとも言えます。
「良い模倣」とは過去の価値を見つめ直し、「時代という物差し」をあてて測り直す作業です。例えばジェンタ氏のデザインにリファインすべき点があるのなら、臆せずそこにトライする。そうしてジェンタ氏が作ったデザインの潮流に何本目かの枝流を生み出すことが「オマージュに携わるメーカーの使命」ではないかと思います。
「許されるオマージュ」とは、そうした使命を消費者に感じさせるものではないかと私は考えます。過去の名作を起点にしつつも、そこに囚われ過ぎることなく「独自の意図」を感じさせることができれば、オリジナルである過去の名作にも「新しい解釈」がもたらされるからです。
どんなに優れたプロダクトデザインであっても、消費される運命からは逃れられません。ただ、新たな解釈の誕生が「防腐剤」の役割を果たすことで情報の鮮度が保たれ、結果として「デザインの賞味期限」が伸びる場合もあります。オマージュウォッチを主力に据えるメーカーさんは、そうした「遠大な文化活動」に参加している意識も大切にしていただきたいと思います。
デザインの夜明け前「真似て真似られ」が当たり前だった時代もあった
これといったエビデンスは示せませんが、1980年代辺りまではどのデザイン分野も「模倣」に対して「ゆるい構え」だったと思います。腕時計も1990年代初頭の人気作(要するに80年代後半の開発)に見られるように似たり寄ったりのデザインが横行していましたし、ブランドがデザインの独立性を頻繁に訴えるようになるのは2000年代に突入してからです。
大所帯の複合企業体が乱立するようになって、デザインに限らずあらゆる「権利」の確保と保護が図られるようになりました。これにより腕時計業界に何となく存在していた「文化を育てる意識」が薄れ、「ウチだけが儲かれば良い」という、業界の未来を考えれば何とも近視眼的な価値観がはびこるようになってしまったわけです。
少なくともデザインの話でいえば、以前の「業界のゆるさ」が持っていた「隙間の可能性」は消え失せました。そもそも人類進化のステップは「他者の模倣」にあります。現在の腕時計にしても「真似て真似られて」のやりとりが生み出した価値観の結晶であることを考えると、ゆとりや隙間こそが「新しい発想の母体」であるのは自明です。
そんな息苦しい世界に「新しい価値観」を生み出す全てのクリエーターに、最大級のリスペクトを捧げます。
とはいえ「オマージュ」に手を出す新興ブランドには、その〝覚悟〟を問いたい
ここまで我慢して読んで下さった方であればお気付きでしょう。そうなんです。砂布巾自身は「デザインなんて好きに真似たら良いねん」と考えています。暴論?? いやいや、ちゃんとした「線引き」はありますからね。
要するに「社会通念に照らしたときの塩梅」さえしっかりと守っていれば、消費者側も「笑って許せる」… そんなオマージュになるなるはずなのです。元ネタに対するリスペクトを忘れず、オマージュとして文化の潮流に何らかの貢献を果たそうという気概さえ見えれば、オマージュ自体はそうそう問題になるものではありません。
ただ、コピーを繰り返せば印刷がぼやけていくように、オマージュの展開を重ねることで元ネタの主題が失われ、オマージュから始まったことすら忘れてしまうメーカーもあります。「剽窃はどこまでいっても所詮は剽窃」。その大前提がすっぽり抜け落ちた時点で、オマージュウォッチは黒い霧に覆われ、闇落ちを始めるのです。
闇に落ちたオマージュウォッチを認める愛好家なんていません。そしてオマージュウォッチの全てが、その危険性をはらんでいるのです。オマージュから始めて大きくなったブランドは数知れませんが、或いはそれ以上の数のブランドが消費者の支持を得られず、表舞台から姿を消している事実から目を背けてはいけません。
先人の良いところは大いに真似るべしです。同時にアイデアを「借りている」という後ろめたさを忘れず、先人への感謝と敬意を持ち続けなければ、オマージュなんて単なる「劣悪なコピー」に過ぎません。「先人の顔に泥を塗らない」… その覚悟の有無によって「愛されるオマージュ」になれるかが決まる気がします。
水面下で話をすべきだった「A社」
ところで「A社の当該モデル」はどう見てもオマージュの一種でしたが、問題を起こすまで消費者は概ね好意的に解釈していたと思います。私個人も「思い切って寄せたなぁ~」と苦笑いの部分はありましたが、モノ自体はとても良くできていたので、それなりの好感度を持っていました。返す返すも「SNS」が悪手でしたね。取り返せるかなぁ… 今後。
そもそも「A社」も企業なのですから、水面下で法律家を通じて対抗すべきだったと思います。消費者の支持があったとしてもそれで相手が怯むとは思えませんし、こういうのは終始「大人対応」した方が結果に繋がります。どう考えてもSNSでイチャモンを付けて好転するような話ではありません。
全ては先に述べた「覚悟の無さ」に由来すると思いました。目の前の現象に捕らわれた結果、感情的になってしまうことは誰にでもありますが、事はビジネスの話。特にイメージで商売をしている腕時計メーカーさんにとって「過剰な一人称の露出」は障害でしかありません。
正直、同情の余地もあります
実はこの一件に関して、ちょっとした情報をもらいました。状況から察した方も少なからずいらっしゃるはずですが、どうやら同じ販売系列で「B社の時計」も扱われるらしいですね(汗) なるほど… それは「A社」にしたら納得いかないかもしれません。
何せソックリなので、お客さんも混乱しそうです。ファッションウォッチですからブランドで選ぶとは限りませんし、何なら最初に目に付いた方を買うなんてこともありそう。さすがに少し可哀想になってきました。
この一件、元ネタブランドが仲裁するとしたら…
「A社」にしてもたった一度の「悪手」でこんなことになってしまうなんて、SNSの恐ろしさは計り知れません。ただ今回の一件は明らかに消費者側が正論。それゆえに全く反論できないでいるのだと思います。回復には相応の時間がかかると思いますし、確かに今はダンマリが正解かもしれません。
それでも、今日という日に「A社の時計」を着けている顧客に対しての気遣いはあって然るべきかもしれませんね。決して安いとは言えない商品ですし、一番モヤモヤしているのはユーザーでしょうからね。そこはキッチリとフォローしないといけません。
万が一、SNSで暗に揶揄された側のブランドが声を上げて「人のこと言えますか!!」なんてやってきたら収拾がつかなくなりそうですが、そうなったとき「オリジナルのブランド」が颯爽と仲裁に現れたらと考えると… 何だかゾクゾクしますね。
「はい!! どっちもオマージュだから引き分け!!」で一件落着させてくれたら、それが前例となってオマージュする側のオリジナルへの敬意も増し、関係性の風通しも良くなる気がします。ビクビクしながら商売しなくても良くなるかもですし。 謂わば腕時計メーカー同士の「大同団結」ですよ!! どうです!? あり得ない??
時計の完成度からオマージュ要素を「引き算」したらどうなる??
売れている時計、要するに消費者の五感にビシビシ響く製品のほとんどが「何らかのオマージュである」と私は考えています。連綿と続いてきた腕時計の歴史から逸脱した「誰も見たことがないデザイン」があるとして、果たしてそれは消費者の理解や共感を呼ぶでしょうか??
結局のところ私たちは名作に憧れ、その想いを自分の中で温めることで「腕時計愛」を育んでいるのです。「学校で教育を受けている」と考えると解りやすいかもしれません。先生の教えは何十、何百の生徒に引き継がれて行きます。生徒たちの思考は一人の優れた教師の影響を色濃く受けるはずですし、彼らがそれぞれに生み出す「何か」にも、先生の影響が現れるはずです。
先生へのリスペクトがあって、それを模倣すること自体は「知性と感性の継承」に過ぎません。その課程で更に優秀な生徒が新しい解釈をもたらせば、オリジナルを凌駕するものが生まれる可能性もある。それに対して乱暴に「所詮はオマージュだ」なんて言う人がいたなら、それはそれで問題です。
貴方の目の前にある優れたオマージュウォッチは、ブランドが時計の歴史を勉強した成果です。「売れた時計」を模倣するのではなく「良い時計」を探求する過程で「過去の名作」に出会ったのであれば、それに感化されるのは悪いことではありません。むしろ勉強家の時計好きが出した「微笑ましい答え」として見て上げれば、この世は素敵なオマージュで溢れた居心地の良い世界へと変わります。オマージュを閉め出すような息苦しい腕時計世界を私は望んでいません。
論考のまとめ
今回の記事の「論点」をまとめさせていただきます。今回も長過ぎましたからね (;´∀`)
対象の「最も特徴的な要素」を考えなしに拝借した時点で、オマージュは「コピーの亜種」に成り下がる(対象の時計にとって最も特徴的なパーツがベゼルならば、それを真似る行為は「アイデンティティの中核を盗む行為」と言える)
それでも「ウチの製品にもこんなベゼルを付けたい!!」と欲するならば、重要なのは「オリジナルから離れる努力をしたか」である(元がオクタゴンのベゼルならデカゴン(十角形)で差別化を図るなど、多少歪になっても「別の解釈を加えて差別化の努力をしている」と伝われば、消費者もそう無碍には扱わない)
愛好家が見ているのは「似ている似ていない」ではない。元ネタへの「リスペクト」とそれに対する「距離感」を保とうと努力する姿勢こそが〝許されるオマージュの条件〟である。
「A社」の時計に関して言えばその外見的特徴から「離れる努力」が不十分だった可能性がある。その認識は消費者の中にも存在していた。
特定モデルのオマージュを「寡占市場」と捉えた「A社」が競合するライバルを非難したことで「赦されるオマージュ」についての〝そもそも論〟が蒸し返された。
こんな感じでしょうか??
最後に… このアイデアは「本当に自分のものか」と疑うことの大切さ
古代ローマの詩人ホラティウスは書簡詩「Ars Poetica」の中で「誰もが扱う題材を、自分の言葉で言い直すのは難しい」と述べているそうです。古代ローマ時代においてすでに「表現の出尽くし」を前提にしているとは… そして同時に「差別化のための技術」についても記述があります。要するに「差別化に知恵を絞り研鑽しなさい」という、テルマエ大好きローマ人から有り難い教えです (*´ω`*)
ですから、美術が商業主義と結びつき「デザイン」として確立してきた長い道のりを思えば、ただでさえ制約の多い腕時計デザインの「完全オリジナル」なんて、おいそれとは口にできないはずなのです。無意識のうちに何かを真似してしまっている可能性だってあるわけですからね。
例えば入れ子構造の細部だけにオリジナルを主張したところで全体が何かの剽窃を思わせたらなら、そこにオリジナルを主張することなんてできないのがデザインの世界です。
クリエーターにとって意匠に関する権利が命綱なのは確かです。ですが、オマージュではない完全オリジナルを目指したとしても「これくらいなら誰でも思い付く」「すでに存在している可能性が高い」という危惧は簡単に拭えません。記録にある全ての意匠権を把握するなんて、土台無理な話だからです。
そもそも人間の美的感覚が180度変わりでもしない限り、格好良く見える時計デザインのあり方も、昔と大して違っていないと考えた方が自然。
ならばデザイナーは「それは剽窃だ!!」と言われないよう慎重に慎重を期して、幾重もの安全弁を自分の作品に施すしかありません。例えブサイクなキメラのようなデザインになったとしても、後々の危機を未然に回避するのはブランドとして当然のこと。特に腕時計のように構造的制約の多い道具の外観に関しては「すでに何らかのオマージュである可能性が高い!!」とおっかなびっくり商うくらいで丁度良いと思います。
いずれは法の解釈も固まり、何らかの線引きが行われる可能性もありますが、今はまだ試行錯誤の段階。それぞれの業界でエチュード(練習曲)を奏で、引っかかる場所が見付かれば対処する… そんな未成熟な共通認識の中で「オマージュの扱い」は揺れています。
実際、私も偉そうなことは言えません。この論考自体が「先人の知見」に倣った部分が大きいですし、それこそが一種の〝オマージュ〟なんですもの (;´∀`)









ご意見・ご感想
コメント一覧 (2件)
時計は贈り物や節目で自分の手元にきた子なら
お値段以上の特別なアイテムになると思います。
自ブランドの時計を大切にしているユーザーのことを
第一に考えて発言や発信をしてほしいものですね。。。
Y他さま、コメントありがとうございます♬
そうなんですよ。ユーザーを大切に思う気持ちが一番の問題だった気がします。
立場のある人にはそれだけの責任があるわけですから、感情に任せて良いことなんてひとつも…(;´Д`)
時計の文化を尊重し、大金を支払うお客さんの気持ちを第一に考えていれば、消費者の眼差しも自然と柔らかいものになると思っています。